ThunderSnakeMusicの楽器屋関係ない話

楽器屋関係ない話です

インターネットネガティブマン

おはようございます

 

皆様はいかがお過ごしでしょうか。

本日はインターネットネガティブマンというタイトルでお送りしております

 

昨今、テレビだけではなくインターネットでの情報の取り込みが盛んに行われるようになってまいりました

便利ですよねインターネット

グーグル先生に聞けば様々な情報を仕入れることが出来るようになってきました。

 

COVID19関連で中々前よりも直接的な人と関わりが減り、何かしらの繋がりを求めSNS等でインターネットに関りを求める方も増えたのではないでしょうか

その中で、SNSの使い過ぎで鬱になる人が増えてきたというニュースを見たことがあります。

更には『デジタルデトックス』なんて行為がカウンターパンチのように言われるようになりました。

 

私の意見を言わせて頂きますと

 

情報の取捨選択出来てなさすぎじゃね?

 

いや、ほんとそう思います。

 

確かに見てて気持ちの良いニュースばかりでないことは事実です。

でもそれってアナタが好んで取り入れた情報ですよね?って思うんです。

皆さん、なんでもかんでも素直に情報を受け入れすぎじゃないかなって私は見ててそう思うんですよ。

やはり普段からネットコミュニティやインターネットの文化に触れずに現実世界の感覚のままインターネットを使おうとすると独特の文化や圧倒的な情報量に触れたときに対応出来ずに気苦労してしまうのはなんとなく想像がつきます。

まだインターネットがない時代、あるいはテレビすらなかった時代

あるいは飛行機や船で海外に行く手段がない時代

情報は極端に少なく

平安の人が一生をかけて得る情報、あるいは江戸時代の人の一年分が現代人の一日の情報量とまで言われたこともあります。

 

現代人情報大杉わろたwww

 

マジそう思います。

船で貿易をして海外と交流できるようになって世界が広がり

飛行機の登場でそれが加速して

物理的な交流ですら飛躍的に文化が変わっていき

 

テレビで全国の様々な情報が飛び交い

インターネットの普及で世界の様々な情報をリアルタイムで得ることが出来るようになりました

 

おそらく未来では脳と直接リンクしてニューロリンクで過去の賢人の知識を脳に直接インストールしたりも出来るようになるかもしれません(SFの域ですが)

扱う人間は大昔の人も今の人も変わらないスペックなのに

情報を得る量だけ増えすぎて、そこに心や人間が付いていけなくなるとか本末転倒ですね 

 

ネットリテラシー

 

最近、出来た言葉だと思います。

黎明期のころはネチケットなんて言葉がありませんでしたか?(死語)

昔はネチケットはインターネットをする上で、ちゃんとマナーを守って社会的に模範となるように心がけましょうみたいな意味合いだったと思います。

そこから更に社会は進化していって

インターネットそのものを自分にとって適切に活かしましょうというのがネットリテラシーという単語だと思います

 

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うそはうそであると見抜ける人でないと(掲示板を使うのは)難しい

報道はある程度のクオリティが保証されておりますが

インターネットの情報の信頼性はそれに劣ります

 

「ソースはインターネットで見た!」

 

どこの誰とも知らない人が無責任に書き込んだ情報を鵜呑みにしてしまう怖さ

そして、世の中には悪意を持って情報を拡散しようとする人もいます。

それを真実と判断して善意で広めてしまう人もいます(実は善意なぶんここが一番タチが悪かったりします)

情報の取捨選択を行うためにその情報が真実なのかどうか一呼吸置いて別のルートから調べてみるのは大事だと思います。

私も中途半端な知識のものは、発言する前にいくつかサイトをぐぐったりして本当に真実なのか確認してから出来うる限り間違いのないような情報をTwitterでは気を付けております。

自分よりも本物の知識を持ってる方もいますし、いつも情報の取り扱いは気を付けているつもりです(揚げ足取りもいますしね)

 

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揚げ足取りの図(二回目)

話を戻しますと

そういった情報の取捨選択が出来ず、流れてきたネガティブな意見があたかも全国民の総意であるかのように受け取ってしまい(極端な話)

インターネットは悪い人ばかりで、世の中は辛いことに溢れている…とまで思い詰めてしまう人がなんと多いことでしょう。

インターネットだけが世界になってしまった人

でもインターネットの中だけでもあなたが見ているのは一側面でしかなくて

善意の面もたくさん存在する。

私はそう考えています(あくまで自分自身の感想です)

 

不思議なもので、人ってのは何か意識的に見ないと自分が信じたい情報しか見ないんですよ。

コロナの中で不安になってる人々

外も出れないし、飲みにも行けないし、友達と遊べない

そうなると自分の不安な気持ちを確認するために

わざわざ自分と同じ苦しい思いの意見ばかりを集めちゃうんです。

それで世界はコロナで不安な気持ちになってる。同じことを考えてる自分は正しい!

みたいな気持ちになって安心感を得ようとしてるんですね。

そして、自分が不安な気持ちを解消したいが為に

コロナで平然としている人を自分とは違うからとヘイトを向けようとして

不謹慎な人間を粗探ししようとするんです。

また受け取り方を自分に都合の良く曲解して攻撃したり、自分の意見が正しいと擁護したり

でもそれってあんまり健全とは言えなくないですか?

そんな事より他の事した方が建設的じゃないかな?と。

 

 

なんという不条理

 

私も勿論、常日頃からお店に迷惑をかけない様に家族に迷惑をかけないように気を付けているんですが

 

ごめんなさい。コロナ前とほとんど生活様式変わってないです

 

普段からインドア気質ですし、お酒は好きですが日常から飲み会行く方でもないですし

職場と家で割と完結してしまうスタイルなので辛い辛いと嘆いたり

あぶねーっていうのにわざわざ飲みに行く人の気持ちが理解しづらい・・・。

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見ちゃいけません!

僕は差別主義者ではないですが

さいころに「あの人とは関わっちゃいけません」とか「あっち見ちゃダメ」

みたいな事を親に言われたことありませんか?

恐らく、どの町にもヤベー奴はいたとおもいます。

勿論、様々な事情があるでしょうし彼らを積極的に差別しようとか思いませんが

やはりトラブルや面倒ごとに巻き込まれるリスクを考えたら、関わらないという選択肢を取るのが人の常だと思います。

町の中という数百人や数千人単位のコミュニティの中でヤベーと言われてしまった人たち。

そこにはたくさんの普通の人がいるはずなのに、すごく目立っちゃいますよね。

そしてインターネットだとそのヤベー奴の人数が規模がデカくなる分、数百人数千人のヤベー奴が凄く目立つんです。

そして、その意見ばかりを目にしてしまってそればかりが世界の言葉のように錯覚しがちです。

なんか小難しい言葉でノイジーマイノリティなんて単語があるみたいです。

でけえ少数派の声です。

そして逆が欅坂さんの曲でも有名なサイレントマジョリティですね

普段、日常と変わらない生活を送ってれば大体の人はROM専(書き込みをせずに見るだけの人)だったり情報を発信するなんてことやらないですよね。本当にそういう人が大半だと思います。

みんな主張したことがあるから書き込むし、何かを訴えたいからこそ声を高らかにあげるわけです。

よくネットで不謹慎な行いをして炎上する人や、発言がめちゃくちゃで炎上する人もいますが

あれって、今までネットをしてこなかった恐ろしいほどのバカ人がネットという世界でヤベー奴として認識されてしまっただけなんです。

 

報道は信頼できるか?

インターネットの普及でテレビの重要性は相対的に下がってしまったと思います

最近はテレビ持ってない人増えたというニュースもありましたね。

また報道不信というか、インターネットはマスメディアアンチみたいな風潮が若干あるうようにも思います(私自身のバイアスですが)そのアンチする内容がマスメディアの情報が元だったりする喜劇みたいなこともたくさんあります

これは皆さんの情報が増えて、受け取るばかりではなく自分自身で探したり

それこそ個人が情報を世間に公表できる力が上がってきたことも関係があると思います。

そしてマスメディアは少数の声を拡散する力があるのではないかなと考えます。

先述したようなほんと一部のヤベー奴の声をあたかも大多数の声のような感じに受け取ってしまうような感じがします。

それに大多数の意見はみんなが思ってることなので報道しても面白くないですしね。

それをやっていくうちに少数の意見を拾い上げてみんながやってます!みたいな感じに受け取ってしまうのかなと。

テレビに慣れ親しんで育ってきた人ほど、テレビに絶対的に信頼を置いてるように思ってます。

もちろん、ネットの誰が書いたか分からないものよりは信頼性はありますが

絶対的な信頼ではない

っていうのはいつでも心に留めておきたいですね。

 

世界は昔と変わっていないし、悲観的にならなくてもよい

 

本当に人の心自体は大昔から変わっていないと思ってます。

もちろん、楽観的になれとは思いませんが

自分にとって心の均整を取るための情報を抱え込みすぎて悲観的になる必要もないと考えます。

わざわざ、デジタルデトックスという言葉を作り出してしまわないといけないほど不器用な人はネットを使い方をもっと覚えて、付き合い方を考えるべきだと思います。

 

ネットの付き合い方を学ぶ

 

顔の見えないネット上の付き合いというものが増えてきました。

実際には会ったことがなくても、何年も付き合いがある人とか

そこから実際にお会いして交際や結婚をする人も。

逆に、そこから犯罪に巻き込まれてしまったり自分自身が犯罪をしてしまったというお話も。

今は若い時からインターネットがありふれていて、コミュニティの中でどの様に人間関係を構築するかを学ぶ前にインターネットに放り出されてしまうヤングもたくさんいるのではないでしょうか。

本来は生まれてから段階を経て、人間関係のコミュニティは広がっていきます。

赤ん坊のころは家族、幼稚園になれば先生や他の子供

小学生~高校生で徐々に徐々に人間関係というものは広がっていきます。

大人の人は分かると思いますが

学生から社会人になったときに、さらに多種多様な人と接する機会が増えたと思いませんか?そして、自分自身が学生だった時にわりと限られたコミュニティにいたなぁって感じたことはありませんでしょうか。

勿論、大人になった今も自分の触れたことのない文化やコミュニティがたくさんあってそのたびに驚くなぁと思います。

 

ネットの付き合いは気楽です。

 

社会的地位や年齢、容姿も関係なくお互いに匿名に近い状態で交流していくことが可能です。

だから、現実のしがらみや付き合いづらさを忘れたくてネットでの関係性に依存してしまう人とかも良く見ます。

何も自分を縛るものがない、社会的な制約がないからこそ

むき出しの人間性そのものに触れあえるからそれに心地よさを感じてしまう人もいるかもしれないですね。

だからこそ、悪意や敵意も直接心に来てしまうのが怖いところです。

大人だとまだ経験で消化出来たり、受け流せる部分があるんですが

子供の場合だと、本来は段階を踏まえて受け入れられるような情報を一気に受け取ってしまう

こうなると、教育よりも禁止にしてしまうのが早いのですが

ぜひ付き合い方を親が学校が国が教育していきたいですね。

今の現状だと中々難しいですよね。

大人でも情報の取り扱いに関して手をこまねいているんです。

ネットリテラシーを教育に取り込むっていうのは難しいですね・・・!

 

ここまでネットのあれやこれやを書いてきましたが

ネットでも現実でも相手が人間である

そんな当たり前な事を当たり前に認識しないといけないですね。

どうしても顔が見えないと、中々想像が働かないのか

その当たり前を忘れてしまう人もいるのかなって思います。

その画面の向こうには、同じように暮らして同じように生きて同じように感情が存在するっていう事実はしっかりと認識しないとですね!

どんなにカッとなっても一呼吸おいて、人と人がコミュニケーションをとってるんだぞということを忘れてはいけないですね。

 

根本的な部分はネットだろうがどこだろうが変わらない 

 

扱う情報量の違いだけで、あくまでも人と人のコミュニケーションは根本なんです。

だから現実もネットも変わらないとも言えますし、違うともいえると思います。

自分の言葉を誰かが受け取って、それを返したり返さなかったり

不特定多数の人に自分を見られてるだけなんですね。

それに振り回されないようにしたいですね

 

最後に

 こうやって書いた事もあくまでも私個人の経験でこう考えてるよという一つの意見であって、あたかもドヤ顔でインターネットwに詳しいと講釈を垂れるキモオヤジwっていう風には受け取ってほしくないなと思います。

勿論、反論もあって然りなのですが。

逆に賛同だ!って意見ばかりなのもどうかと思うし

ネットリテラシーの中で情報の一つとして取捨選択していただければ幸いです。